県営鉄道1100・1600形

暫定開業期をつないだつりかけ車両

概要

県営鉄道1100・1600形は、県営鉄道が開業した1961年に導入された車両である。2両編成4本が導入された他、部品取りとして電動車1両が購入された。1968年の花見川団地延伸の際には、3M1T化や車体更新等を行い継続使用することも検討していた。しかし、整備面や性能面、接客設備の面から2000系を増備した方が良いと判断され、同年の延伸をもって引退したため、7年程度の活躍に終わった。

千葉津田沼線開業まで

旧軍用鉄道線の転用にあたっては、県の内陸開発の方針や沿線各市の要望等もあり、県が取りまとめて運営を行うことになった。当時県は内陸部に「千葉ニュータウン」を構想しており、ニュータウンと都心を結ぶ鉄道交通(北千葉線/本八幡~印旛日本医大)を検討していた。この時にどこかで実務を積めれば、将来の北千葉線運営の際に役立つとして、旧軍用線を足掛かりとして運営を行っていくことになった。

この路線は千葉津田沼線という名称となり、1961年に津田沼(現・菊田)~高津間が開業し、その後は旧軍用線の跡地を順次転用していく方針とした。しかし、当時は全区間を自衛隊第101建設隊と共用している関係で、単線での開業を余儀なくされていた。また県の本命はあくまで北千葉線であり、千葉津田沼線については最悪「踏み台」になってもいいと考えていた節さえあった。北千葉線については10号線(現在の都営新宿線)乗り入れによる都心直結が考えられていたが、千葉津田沼線に関しては近隣に東西線があったのにも関わらず(東西線に乗り入れるためには既に逼迫状態の総武線を経由する必要があったとはいえ)、特段乗り入れ計画は策定されていなかったという。

このような面もあり、車両はなんと中古車が導入されることになった。それでも公式には「1968年の本格開業(花見川団地延伸)の際に新車導入を検討する」としたが、本格開業の際に重要となるはずの津田沼口が単線という状態では、その惨状は誰の目にも明らかであった。

国鉄30系の入線と来歴

そんな中で県営鉄道にやってきたのは元国鉄30系のクモハ11形とクハ16形である。

30系は1926年から1928年にかけて新造された17m級3ドアの車両である。1953年の車両形式称号規定改正の際に、17m級3ドアの車両はその出自に関係なく、モハ10(中間電動車)、クモハ11(片側制御電動車)、クモハ12(両側制御電動車)、クハ16(制御車)、サハ17(付随車)の各形式に統合された。なお、出自による細かい部分(屋根形状や台車等)については番台で区分されたが、ここでは割愛する。

元々東京圏に導入された車両であるが、20m級車両の増備により1951年以降は国鉄の地方線区へ転出していき、1958年以降は廃車が発生していた。県営鉄道は1958~1959年に廃車となった9両を購入することになる。

県営鉄道入線後

購入した車両は、部品取り用とした中間電動車1両を除いて、制御車か制御電動車の車両であった。これら2両4組が導入されたが、千葉津田沼線では2両2運用での運行を計画していたので、予備車を1本とすると1編成が余る計算となる。この余剰分については、第101建設隊への貸出を打診したところ、国鉄幹線の電化が進んでいることに鑑みて、同部隊の訓練用車両として使用される運びとなった。

なお、当時は2両編成・毎時2本での運行計画であり、現在のように10両編成の電車が数分毎に雁行する光景からは信じ難い本数であった。これには沿線自治体から「やる気がなさすぎる」として、最終的には毎時4本程度の本数に落ち着くことになる。

最も輝いた晩年と2000系の投入

1966年には第101建設隊の解散や津田沼駅周辺改良の目途が立ったことで、ハード面での改良が進展した。また、駅の増設や本数増加などの策が功を奏し、ある程度利用が定着した。そしてついに1968年には花見川団地延伸が行われ、大元の目的である「旧軍用鉄道の旅客転用」が前進した。

その一方で、利用者のみならず、沿線自治体や住宅公団から新型車両の導入が強く望まれた。また1100・1600形は電空カム式であり、整備に苦労した車両であったことから、現場サイドからも少なからぬ置き換えの要望があった。これを受けて、1968年の延伸時には2000系電車が新造され、1100・1600形は一掃された。

引退後

引退後、車両は全て解体されたため、保存車両等はない。

  • 最終更新:2017-11-03 19:58:41

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